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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

EU-25/2004(南欧)

もう1つの分断国家・キプロス 2004年4月25日(日)

 去る4月24日、スイスの連邦制をモデルとした国連案によるキプロス再統一についての住民投票が行われ、北側(トルコ系・「北キプロス・トルコ共和国」、ただし国家承認しているのはトルコのみ)では賛成多数だったのに対して、南側(ギリシア系・キプロス共和国)は反対多数で否決、キプロスの再統一は見送られる事となった。
 このため、来週5月1日に予定されているEU加盟は南側のキプロス共和国のみが参加することになった。この住民投票結果については、国連やヨーロッパ諸国から遺憾の意が表明されている。
 国連による再統一案ではトルコ系の大幅な自治を認め、またギリシア系住民のトルコ軍侵攻(1974年)以前の北側での財産請求権が大幅に制限されているため、ギリシア系住民の支持を得られなかったようである。
ベトナム、ドイツ、イエメンが統一された今、キプロスは朝鮮半島と並んで分断状態が続いている国である。ただし、冷戦構造下で一民族が分断された他の「分断国家」と違い、この島国にはトルコ系(イスラム教徒、住民の約18%)とギリシア系(キリスト教・ギリシア正教徒。人口71万5千人)という二つの民族が対峙している。

 外務省ホームページをひもとくと、キプロス島は面積九千平方キロメートル(四国のほぼ半分)、とある。この小さな島に、およそ90万人(徳島県とほぼ同じ)が暮らしている。国土は山がちで、杉の森に覆われ、豊富な銅鉱脈が地下に眠っている。この杉もしくは銅(古代ギリシア語でそれぞれ「キュパリッソス」・「カルコス」)が「キプロス」という島名の語源になったといわれている。またこの島名がラテン語で「銅」を表わす言葉となり(「キプロスの鉱石」aes Cyprium)、英語(Copper)やドイツ語(Kupfer)にもその名残がある。
 キプロス島の重要性は、その資源のみにとどまらない。地図を見れば明らかだが、北の対岸はトルコ(小アジア)、東の対岸はシリア・レバノンであり、地中海の東端にぽっかりと浮かぶいわば「不沈空母」のような位置にある。そのため、地中海東部の制海権を欲するものは、常にキプロス島(及びクレタ島)を制することを心がけた(現在の新聞社や通信社がキプロスの首都ニコシアに支局をもつ意味もここにある。キプロスではトルコ、ギリシア、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトなどのラジオやテレビが全て受信できる)。

 キプロスが国際政治上の争奪の舞台になるのは、早くも紀元前1400年頃のことである。当時アラシアという名前で呼ばれていたキプロスは、地中海の海上交易のハブ(軸)のような役割を演じており、さらにキプロスで産出される銅は、道具を鉄ではなく青銅で作っていた当時(青銅器時代)は必要不可欠の資源だった。キプロス島はギリシア本土からミケーネ文化の強い影響を受けていたのだが、当時小アジアを支配していたヒッタイト帝国はアラシア支配に乗り出し、エジプトなども巻きこんで国際紛争の種となった。
 紀元前1200年頃にヒッタイト帝国が滅亡すると、レバノンからフェニキア人、ギリシア本土からギリシア人が海路移民してきた。彼らは共に地中海の商業上の制海権を握ろうとするライバルであり、こののち現代に至るまで、概ねこの島はギリシア系住民の住むところとなる。こののちも史上常に制海権を狙う大帝国の支配を受けることは避けられず、アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシア帝国、マケドニア王国(アレクサンドロス大王)、プトレマイオス朝エジプト(女王クレオパトラの王国)と支配者が代わる。紀元前58年にはローマ帝国の版図に組み入れられ、やがて東ローマ(ビザンチン)帝国の支配が長く続いた。
 1191年、十字軍に従軍して中東に向かっていたイングランドの獅子心王・リチャード1世はキプロスを征服、十字軍国家を樹立した。ヨーロッパ勢力が中東に進出しようとする上で、基地としてキプロスが不可欠だったことが分かる。この国は1489年まで続き、同じく地中海の制海権を狙う都市国家・ヴェネツィア共和国に併合される。
1570年、今度は北の小アジアからオスマン(トルコ)帝国軍が上陸し、キプロス島を征服した(この征服が、翌年の著名なレパントの海戦のきっかけとなった)。既に中東のみならずバルカン半島や北アフリカを支配下に置き、地中海を半ば内海化していたオスマン帝国にとって、ヨーロッパ勢力(ヴェネツィア)の支配下にあるクレタ島やキプロスは獅子心中の虫のような存在だった。オスマン帝国は小アジアから移民を入植させると共に、島民のイスラム教への改宗を奨励した。こうしてキプロス島にはトルコ系・イスラム教徒住民のコミュニティが形成された(この辺の事情はボスニアに似ている)。
19世紀に入り中東進出を狙っていたイギリスは、1878年のベルリン会議でロシアに対抗してオスマン帝国を支援する見返りとして、オスマン帝国からキプロス島を獲得した。イギリス本土とインド植民地を連絡する上で、エジプトのスエズ運河と並んでキプロス島は重要なシーレーン防衛の拠点となった。1915年、第1次世界大戦でトルコがドイツ側に参戦したのを機にイギリスはキプロスを正式に併合した。
1931年、ギリシア系住民による独立運動及びギリシアとの併合(「エノシス」=回帰)運動が始まるが、イギリスは戦略的に重要なこの島を手放そうとしなかった。1955年には対英ゲリラ闘争にまで発展する。1956年のスエズ紛争(エジプトがスエズ運河を国有化)でイギリスの中東政策が破綻する中、イギリスはキプロスを保持する意味が乏しくなり、1960年にキプロスの独立を認める。
 ただし現在もキプロス島の5%ほどがイギリス軍の基地としてイギリスの主権下に置かれており、キプロスは「分断国家」というだけでなく、いわば「基地の島」でもある(クレリデス前大統領もイギリス空軍での軍歴がある)。また100年近いイギリス支配はキプロスの住民に文化的な影響を残し、キプロスのギリシア系住民は誇りを持って自らを「ブリテン系ギリシア人」と呼ぶことがある。本土のギリシア人と異なり秩序を愛し、行列を作る癖があり、またウゾ(ブドウから作る蒸留酒。ギリシアの名物)ではなくスコッチ・ウィスキーを愛飲する。

 1960年の独立当時、トルコ系住民は18%、ギリシア系住民は78%ほど存在した。初代大統領はギリシア正教のキプロス大司教だったマカリオス3世で、少数派であるトルコ系住民のある程度の自治を認めていた。しかしトルコ系住民とギリシア系住民の対立は収まらず、1963年にはトルコ系住民が議会から議員を引き上げてしまう。
 1974年7月、ギリシア軍事政権の示唆を受けたキプロス軍部(ギリシア系)はクーデタを起こしてマカリオス大統領を追放、「エノシス」(回帰)を唱えギリシア本土との統合を図った。ギリシアと犬猿の仲だったトルコはこの事態に対し、即座に空挺作戦を含む大規模な軍事侵攻に踏み切り、キプロスの北半分約4割を占領、トルコ系住民をトルコ軍占領地域に収容した。この軍事的敗北によりギリシア軍事政権は国民の抵抗運動もあって崩壊、エノシス運動は頓挫する。
 トルコは北キプロスに3万5千の兵力を常駐させて分断を固定化する一方、トルコ本土からトルコ人を積極的に移民させてトルコ系住民を増やす政策を取り続け、現在ではキプロスのトルコ系住民の割合は3割くらいまでに増えていると推測されている(同じような施策をコソヴォでアルバニア系住民が取っている)。また「軍事占領」という非難をかわす意味から、1983年11月に北キプロスのトルコ系住民に「北キプロス・トルコ共和国」の独立を宣言させた。ただしこの国家を承認しているのは勧進元のトルコ一国のみであり、トルコの国際的な孤立の一因となった。
 国連停戦監視団による緩衝地帯はキプロス島を南北に分断しており、首都ニコシア(人口20万)市街の真中も通っている。かつての東西ドイツのような目に見える壁こそ無いが(最近は南北交通が可能になり、越境して働く人も多いようだ)。ギリシア本土では、キプロス島が血を流している絵をあしらった「キプロスを忘れるな」という看板があちこちに立てられているのを見かけた。北キプロスに入国記録がある者はギリシアへの入国を拒否される(注・これも1999年以降のギリシャ・トルコ関係の改善で変わった可能性がある)。

 キプロスの再統一交渉はなんどとなく行われてきた。特にキプロス(ギリシア系)が2004年のEU加盟を認められた2001年からは、トルコ系のデンクタシ大統領とギリシア系のクレリデス大統領の間で何度も会談が行われたが、その都度物別れに終わった。
 特に昨年のキプロス(ギリシア系)大統領選挙で、統一推進派のクレリデス大統領がかつての盟友で統一反対派のパパドプロスに敗れてからは、風向きが変わっていた。EU諸国やEU加盟を目指すトルコの圧力で、EUへの南北キプロス同時加盟を目指した再統一交渉こそ行われていたが、実現する可能性は低いと事前に見られていた。
 一人あたりGDPで見ると、ギリシア系はEU平均の7割以上の高水準にあり、あえて貧しい北側と統一する必要を感じないこと(一人あたりGDP13050ドル。これはギリシア本土よりも豊かであるということである。一方北キプロスのデータはないが、トルコと同程度とすれば一人あたりGDPは2600ドル、南側の5分の1ということになる)、またトルコ系住民が大幅な自治を求め、実質的な一国家二政府(国家連合)を主張していることをギリシア系住民の多くが受け入れがたく思っていることも、この大統領選挙や今回の住民投票の結果の背景にあるのだろう。この辺の事情は、東アジアにあるもう1つの分断国家と似ているかもしれない。



EU新加盟国・マルタ共和国  2004年4月30日(金)

 今年の5月1日は、「麗しの五月」が来るという以外に、また特別な意味を持っている。EUに新規10ヶ国が加わり、25ヶ国体制になる。ベルリンやポーランドとの国境の町などでは式典が開かれる(EU拡大に反対するデモもあったそうだ)。また今月で任期が切れるヨハンネス・ラウ大統領は今日ポーランド議会で演説した。
 かつての冷戦構造・「鉄のカーテン」が完全に一掃されたというので全体にお祭り気分であるが、実際どういう影響が出てくるかは分からない。
今日街中でポーランド・ナンバーの乗用車を一台見たが、EUになる前にドイツに入りたかったのだろうか。

 ということで(?)、EU新規加盟国について自分なりにその歴史を調べた備忘録を連載しようと思う。10ヶ国全部書くかどうか分かりませんが・・・。
 先日キプロスについて書いたばかりなので、今日は同じ地中海に浮かぶマルタ共和国について。もちろん行った事はありません。

 マルタ共和国はシチリア島(イタリア)のやや南に浮かぶ複数の島からなっている。といっても人が住めるのはマルタ、ゴゾ、コミノの三島だけで、人口37万人の大部分は最大のマルタ島に住んでいる。国面積は316平方キロで、淡路島の半分くらいだそうだ。
 マルタ島はシチリア島同様、地中海のちょうど真中あたりという非常に微妙な位置に在る。マルタから地中海東端の港町ベイルートへと、地中海の西端で口を塞ぐジブラルタルへは、ほぼ2000kmで同じ距離になる。地中海をゆく船にとって位置的には絶好の寄港地になるはずなのだが、島の海岸の大部分は切り立った絶壁になっており、港は首都のヴァレッタ(人口14万、旧市街は世界文化遺産に指定されている)くらいである。島自体はほとんど平坦である。

 マルタ島の住民の多くは北アフリカ・中東系のマルタ人で、マルタ語を話す(他に英語が公用語)。このマルタ語というのが奇妙な言葉で、セム語の一派、つまりアラビア語に近い言葉である。おそらく紀元前1000年頃にこの島に入植したフェニキア人の言葉が残ったのだろう。フェニキア人の故地であるレバノンを始め、中近東のセム語は今やアラビア語に統一されてしまっているから(20世紀になってイスラエルではヘブライ語が人工的に「復活」したが)、マルタ語は一種の「生きた化石」のようなものかもしれない。
 マルタ島は遺跡の宝庫でもある。こんな小さな島の至る所に巨石を積んで組み合わせて墓室とした先史時代(巨石墓文化・紀元前4500~3200年頃)の墓が残されている。同様な新石器時代の巨石墓はスペインやフランス、イギリス、デンマーク、ノルウェー、サルディニア(イタリア)などに分布しているが(墓ではないが、有名なイギリスのストーンヘンジもこの文化の産物であると思われる)、この文化は北アフリカ・スペイン南部から発して海伝いに伝播したものと考えられている。マルタ島は既に先史時代から地中海交通の要衝だったわけである。
歴史時代になってからは、地中海の制海権を握る民族が次々と支配者や入植者としてこの島にやって来た。マルタ人の直系の祖先であるフェニキア人とその一派であるカルタゴ人。フェニキア人のライバルだったギリシャ人。カルタゴに代わって地中海の覇者となったローマ人などなどである。
 870年、アラブ人が東ローマ(ビザンツ)帝国からこの島を奪う。次いで1080年には北欧に起源を持つノルマン人(ヴァイキング)が、シチリア王国を建設してマルタ島を支配下に入れる。さらに1282年にはアラゴン王国(のちのスペイン)の支配下に入ったりと目まぐるしい。カルタゴの時代以来、マルタは概ねシチリア島の「おまけ」のような存在だったようだ。

 こうしたマルタ島の歴史で異彩を放っているのが、1530年にこの島にやって来た聖ヨハネ騎士団である。十字軍の最中の1113年に聖地エルサレムで結成されたこの騎士団は、本業の戦争だけでなく病者の救済事業も行っていた。今でもドイツには「Johanniter」とか「Malteser」と書かれた救急車が走っているが、これは聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の名残りである(戦争のほうは今はやってない)。「マルタ十字」として知られる聖ヨハネ騎士団のマーク(八稜の変形十字架)も有名である。
 どうしてヨハネ騎士団がマルタにやって来たかというと、イスラーム勢力に駆逐されてエルサレムを追われた騎士団は1291年にキプロス島、1309年にはロードス島(ギリシャ)に本拠地を移して活動(イスラーム教徒の船舶を攻撃・略奪する海賊行為。現代風に言えばテロ活動か?)を続けていたのだが、1522年にはオスマン(トルコ)帝国の大軍によってロードス島をも追われてしまった。そのため当時スペインを支配していたハプスブルク家は、対オスマン帝国の尖兵として聖ヨハネ騎士団を利用するため、マルタ島を知行地として与えたのである。オスマン帝国は1565年にはマルタ島にも襲来したが、こちらは撃退されている。
1798年、ナポレオン率いるエジプト遠征途上のフランス軍はマルタ島を占領、聖ヨハネ騎士団を追放して海軍根拠地にしようとしたが、海軍力で勝るイギリスが2年後にマルタ島を占領、マルタ島はイギリスの支配下に入る。
 ナポレオンに追われたヨハネ騎士団は本部をローマに移し、今も存在している。

 イギリス-エジプト-インドを結ぶシーレーン防衛の拠点として、イギリスはマルタ島をジブラルタルやキプロスと並ぶ海軍根拠地とした。1814年のウィーン会議で正式に併合、1921年に一部自治を認めた。
 1929年、イタリアのムッソリーニ政権とローマ教皇がラテラン条約を結んでヴァチカン市国の国家としての独立を認めた際、マルタ島の帰属を巡ってイタリアとヴァチカン市国がイギリスと対立した。もともとマルタは聖ヨハネ騎士団(ローマに本部がある)のものであるから返せ、という理屈である。
 第2次世界大戦の勃発により、イギリスとイタリアは戦争状態に入った(1940年6月)。イタリアの作戦遂行上、植民地であるリビア・北アフリカとイタリア本国の間にあってイギリス海軍や空軍の根拠地となっているマルタ島は非常に邪魔になった。イタリア空軍にやがてドイツ空軍も加わって、マルタ島は激しい空襲を受け続けた。マルタ駐留のイギリス軍はこれによく堪えた。
 1942年、イギリス政府は孤軍奮闘するマルタに対して聖ジョージ勲章を贈った。この聖ジョージ勲章は、今もマルタ国旗の左肩に図案化され掲げられている。

 1947年、マルタは完全自治を与えられ、1964年にはイギリス連邦の一国として独立した。
 1971年に政権が労働党に代わると共和制に移行(1974年)、総督を廃して大統領制度を導入する。労働党政権は非同盟中立主義を掲げ、イギリス軍はマルタから完全撤退(1979年)、隣国リビア(カダフィ政権)との関係強化を図った。
 1987年の総選挙でエドワード・フェネク・アダミ(現大統領)率いる国民党が勝利、親西側路線に方針転換した。1988年には米ソ首脳会談(レーガン・ゴルバチョフ)がマルタで開かれ、冷戦の終結や軍縮などで合意、「ヤルタからマルタへ」という言葉が一世を風靡した。
国民党政権は1990年にEU加盟を申請、1996年に一時労働党が政権を奪還するが、1998年の総選挙ではEU加盟を訴えた国民党が再び政権の座に返り咲き、今日のEU加盟を迎えた。
 マルタにはめぼしい産業は無く、観光業と造船(船舶修理)が主な収入である(一人あたりGDPは9120ドル)。特に観光収入の比重が大きく、年間100万人(住民の三倍)の観光客が訪れている。またヨーロッパ内では英語を公用語とする数少ない国の一つでしかも物価が安いため、英語学習のためにマルタに留学するヨーロッパの学生も多いそうだ。

 マルタと日本はほとんど縁が無いが、マルタのイギリス軍墓地の一角には日本海軍将兵の慰霊碑がある。
 第一次世界大戦(1914~1918年)の際、日本は同盟国イギリスの要請により駆逐艦隊をはるばる地中海に派遣、イギリス海軍基地のあったマルタ島を根拠地として、ドイツ海軍の潜水艦(Uボート)攻撃に対して掃海任務・海上輸送の護衛任務にあたったが、その際の戦死者71名のための慰霊碑である。



 EU新加盟国・スロヴェニア共和国  2004年5月04日(火)

 EU新規加盟国のキプロス、マルタに続いて今日はスロヴェニアについて。イタリアの北東、オーストリアの南にある小さな国である(マルタに比べれば大きいが)。
 ついでながら、これまで取り上げたキプロスとマルタがいわば「地中海に浮かぶイギリスの分身」だったのに対し、スロヴェニアを始めとして、これから挙げてゆく国々はいずれも国家形成の過程でドイツの強い文化的影響を受けている。
 今回のEU拡大とは歴史的に見れば実に英語文化圏とドイツ語文化圏の統合に過ぎず、ロシアの主導した汎スラヴ主義からの解放である。また今後のEU拡大は歯止め傾向になるのは容易に予想がつく(ドイツ系住民の多かったクロアチアとルーマニアは別だが)。

 スロヴァニアは、今回のEU新規加盟国の中で唯一僕が行った事がある国である。「行った」といってもドイツからトルコに車で行く途中に通過したというだけで、知っているのは車窓の風景のみだが。その印象はというと、山がちで緑が溢れ、旧共産圏にしては小奇麗な国、といったところだろうか。もっとも首都リュブリャーナ(人口33万人)の郊外は素っ気無い町並みで、いかにも旧共産圏という感じは受けた。
 この印象はあながち的外れでもなく、スロヴェニアの一人あたりのGDPは9450ドル、これは韓国、EU内で言えばギリシャやポルトガル並で、今回のEU加盟国の中ではキプロスやマルタに次ぐ高水準である。同じ旧ユーゴスラヴィア連邦に属していたクロアチアやセルビアに比べると倍以上で、これは1991年にユーゴスラヴィアから独立する以前からだった。
 スロヴァニアの面積は2万256平方キロで四国とほぼ同じの小さな国で、この山がちの国に199万人(愛媛・香川を合わせたくらい)が住んでいる。人口のほとんどがスラブ系のスロヴェニア人で、その国旗は上から白・青・赤のスラブ三色旗で、旧ユーゴや現在のロシア国旗に似たデザインである。ただし左肩に山と星を図案化したワッペンがあしらわれており、いかにもこの山国らしい。
 最近では2002年のサッカーワールドカップ日韓大会に出場、予選リーグで三戦全敗だったが、岡山県美作町でキャンプを張っていたのが僕の記憶に新しい。スキー大回転といったウィンタースポーツも盛んな国である。

 スロヴァニアは先史時代から北のオーストリアと強い繋がりがあり、火葬墓文化(紀元前1300年頃)、ハルシュタット文化(ケルト人。紀元前800年頃)といった共通の文化を持っていた。一方で、アドリア海の対岸であるイタリア方面とも繋がりがあり、ギリシャ陶器やイタリアからもたらされた青銅器(兜や短剣)が出土している。余談だが、スロヴェニア国内でラジオを聞いていたとき、イタリア・ポップスのような軽快な曲が流れたが、まぎれもなくスロヴェニア語の歌だった。現代もイタリアの影響は強いらしい。
 紀元前34年、ローマ帝国の将軍ガイウス・オクタヴィウス(のちの初代皇帝アウグストゥス)が属領ノーリクムに都市を建設する。これがのちのスロヴェニアの首都リュブリャーナになる。4世紀以降ローマ帝国が衰亡すると、東方の騎馬民族・フン族やゲルマン人が来たりもしたが、遅くとも7世紀頃にはこの地は南スラヴ族の天地となる。
 「スロヴェニア」という民族名は「スラヴ」という言葉と語源は同じである。「スロヴェネ」もしくは「スロヴォ」というのはスラヴ語で「言葉」という意味で、おそらく「言葉が話せる」という意味の民族名なのだろう。逆にスラヴ系言語ではドイツ人のことを「ネメツケ」とか「ネメチコ」と呼ぶが、これは「何を言っているのか分からない」という意味がある。
 791年から796年にかけて、フランク王国の王でのちに「(神聖)ローマ皇帝」となるカール大帝はアヴァール族(ハンガリー辺りにいた騎馬民族)を征討したが、その際スロヴェニアの地は辺境領ケルンテンとしてカールの帝国の支配下に入る。その過程でスロヴェニアはキリスト教化していった。
 ドイツ・フランスを中核とするEUはよくカール大帝の帝国と比較されるが、そういう点ではスロヴェニアは歴史的にはEUに入る資格は既に十分あったといっていいだろう(それに対してキプロスなどは地理学上はもはやヨーロッパですらないが)。

 900年頃にマジャール人(現在のハンガリー人の祖。これも東方出自の騎馬民族)の来寇を受けたりするが、スロヴェニアはケルンテン公国として概ね神聖ローマ帝国(=ドイツ帝国)の領域内にあった。1335年には支配者がオーストリアを領国化したハプスブルク家となり、このハプスブルク家の支配は実に第1次世界大戦での敗戦でオーストリア帝国が瓦解する1918年まで続くことになる。
 この長いオーストリア支配のため、スロヴェニアはドイツ語文化圏の一部となった。首都リュブリャーナは本来ドイツ語でライバッハといい、また第2の都市マリボルはマールブルクという名前だった。そう、僕が住むマールブルクと同名である(そのためドイツのマールブルクには「ラーン川沿いの an der Lahn」、スロヴェニアのほうには「ドラウ川沿いの an der Drau」という形容詞が付く。ちなみに両都市は現在姉妹都市である)。
 この間、16世紀の宗教改革はスロヴェニアにも及び、ルター派(プロテスタント)の教会が1561年に創設された。ラテン語のみだった聖書をドイツの口語に翻訳したルターに習い、この教会はスロヴェニア語で出版を行い、スロヴェニア語文学の礎となった。もっとも1620年以降、ハプスブルク家(フェルディナント2世)の支持を得たカトリック派の巻き返しにあい、プロテスタントはドイツに追放された。またオーストリアに対する農民叛乱も相次いだが、その都度鎮圧された。
 1809年、オーストリアを破ったナポレオンはアドリア海沿岸をフランスの直轄領としたが、その際スロヴェニアも組み込まれ、リュブリャーナに県庁が置かれた。フランス革命にならい「法の下の平等」が謳われ、農地改革が行われて農奴が解放され(これは既にオーストリアにより1782年に行われていた)、農民は自分の土地を与えられた。またスロヴェニア語による初等教育も始まった。ナポレオンがロシアに敗れた1813年に再びスロヴェニアはオーストリアの支配下に組み込まれる。しかしこれはオーストリア支配に甘んじてきたスロヴェニア人にとっては画期的な出来事だった。
 スラヴ主義の流行により、1855年にはスロヴェニア民族主義者によるドイツ系住民からの経済的自立運動が始まる。アントン・リンハルトによりスロヴェニア民族史が編まれたり、フランツェ・プレシェーレンといったスロヴェニア語によるロマン主義詩人も登場した。

 1918年12月、オーストリア帝国は第1次世界大戦に敗れ、帝国は瓦解した。戦勝国イタリアによる侵略にさらされたスロヴェニアは、同じく第一次世界大戦の戦勝国で同じスラヴ族であるセルビア王国に頼り、その南スラヴ統一国家に参加する。この王国は当初こそ国名を「セルビア・クロアチア・スロヴェニア連合王国」としていたが、指導民族であるセルビア人と他の民族の対立は収まらなかった(セルビア人は正教、スロヴェニア人はカトリック)。1929年、セルビア国王アレクサンデルは国名を「ユーゴスラヴィア」(南スラヴ)と改め各民族の融和を図る一方で、セルビアによる支配確立を目指し独裁色を強め、警察による民族主義の取締りを強化したが、1934年に外遊中マルセイユでクロアチア人に暗殺された。
 第2次世界大戦(1939~1945年)の際、当初ユーゴスラヴィアは日独伊三国軍事同盟に参加したが、1941年初めに軍部のクーデタにより反独政権が誕生するや脱退、ドイツはすかさずユーゴスラヴィアに侵攻して占領(1941年3月)、イタリアと共にユーゴスラヴィアを分割支配した。
 このドイツ・イタリアによる支配に対し、クロアチア人チトー率いるレジスタンスが抵抗し、1945年にほぼ自力でユーゴスラヴィアを解放し、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国として再出発、スロヴェニアもその構成国となる。チトーは1949年には覇権主義のソ連と決別し、独自の非同盟・中立路線を取る。

 ところが1980年のチトーの死、そして1980年代後半に東欧におけるソ連の覇権が弱体するのに刺激され民族主義が復活、ユーゴスラヴィア内の各共和国は動揺する。冒頭に触れたとおり、スロヴェニアはもともと他のユーゴ連邦構成国よりも経済水準がはるかに高く、「計画経済の美名の下、中央政府であるセルビアに収奪されている」という不満が強かった。
 スロヴェニア共和国議会は1989年に自由選挙と分離独立の権利を確認する決議を行い、1991年6月、国民投票の結果を受けユーゴスラヴィア連邦から独立を宣言した。ユーゴ連邦軍との衝突は10日間で終わり、翌月EU(当時はEC)の調停でスロヴェニアはユーゴスラヴィア連邦(実態はセルビア共和国)とブリオニ条約を締結し連邦軍は撤退、独走したドイツに引きずられる形でEU各国もスロヴェニアを早々に国家承認し、スロヴェニアは独立を達成した。
 独立当初こそ最大貿易相手国であるユーゴスラヴィア(セルビア)との交渉を失って経済に打撃を受けたが、その後はドイツやイタリアとの経済化関係を拡大して順調な経済成長を続けている。政局も自由民主党(クーチャン前大統領、ドゥルノシェク現大統領の出身政党)がほぼ政権を担当して安定しており、旧ユーゴ諸国では唯一、今回の拡大EU加盟を実現した(今年3月にNATO加盟も果たしている)。



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